この瞬間、弥生の胸は罪悪感で押しつぶされそうになっていた。自分がちゃんとひなのを守れなかっただけじゃない。彼女は、ひなのがいつ、どうやってケガをしたのかすら知らなかったのだ。弥生の目から涙がこぼれ落ちるのを見て、ひなのも少しうろたえた。「ママ、泣かないで。ひなの、痛くないよ」兄の陽平もそのとき駆け寄ってきて、つま先立ちになって弥生の涙を拭おうとした。ふたりの子供たちが自分のことを気遣ってくれる様子に、弥生はなんとか涙をこらえ、彼らに向かって言った。「おうちに帰ったら、ちゃんと手当てするからね」「ママ、大丈夫だよ。ママのせいじゃないよ」「よし、それじゃあ、今からはしばらく静かにしよう。ひなのの足......ママがマッサージしてあげるね」弥生はそっとひなのの痛む足首を揉みはじめた。ひなのはすぐに目に涙をためたが、弥生に心配をかけたくなくて、それをぐっとこらえた。陽平はその様子を見て、そっと自分の手を差し出し、ひなのが握れるようにしてあげた。三人はトイレの中でじっと息を潜めていた。スマホがなかったため時間も分からず、弥生にはどれほどの時間が経ったのか見当もつかなかった。ただ、優しく、繰り返し、ひなのの足を揉み続けるしかなかった。どれくらい経っただろうか、ようやく手を止めた。感覚的には、あれから10分は経っている気がした。あと10分。由奈たちがここに来るはずの時間が近づいている。道が順調なら、もう到着しているかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、弥生はじっと待った。そのとき、外から物音が聞こえた。誰かが洗面所のドアノブを回していた。今この場所にいるのは弥生たち三人だけ。静まり返っているから、その音が余計にはっきりと響いていた。「ここのトイレ、鍵がかかってるぞ」「鍵?トイレに鍵?絶対何かあるな。ドア、ぶち破れ」「でもこのドア、重そうだし、簡単にはいかねえぞ」「なら、鍵を壊せばいい」その言葉を聞いた瞬間、弥生は息もできなくなった。外の声からして、相手はかなり凶暴そうだ。彼女は唇を噛みしめ、目を閉じた。まるでこれから拷問でも受けるかのような気持ちだった。しばしの静寂のあと、重い物でドアロックを叩く音が響いた。ゴンッ!ゴンッ!そのたびに、洗面所の中全体が揺れた
弥生はその様子を見て、すぐにしゃがみ込んだ。「どうしたの?」ひなのは首を振った。「大丈夫だよ」けれど、弥生は様子がおかしいことにすぐ気づき、真剣な顔つきで聞いた。「足、くじいたんじゃない?ママが見てあげる」「ほんとに大丈夫だよ......」ちょうどそのとき、入口の方で騒ぎが起きた。地面にしゃがんでいた弥生がすぐに顔を上げて見ると、さっき旅館で見かけたあの数人の男たちが、険しい表情を浮かべてゲームコーナーの方へと向かってくるところだった。まるでケンカでも始めそうな勢いだ。その姿に、周りの子供たちは怖がって悲鳴を上げ、逃げ出していった。弥生の顔色がさっと変わった。まだ四十分ちょっとしか経っていないのに、まさか本当にここまで来るなんて。これでもう、由奈たちが迎えに来てくれるまでここに安全にいられる可能性はほぼゼロになった。弥生は周囲を見回し、出口が一つしかないことに気づいた瞬間、唇をきゅっと噛みしめた。彼女はすぐ立ち上がり、ひなのを抱き上げ、陽平には後ろからついてくるように言って、混雑した別の人混みの中に身を紛れさせた。「探せ!」後ろから怒鳴り声が聞こえる。あの男たちは、群衆に向かって「うちの子が迷子になった」と叫びながら探しており、さらには「今日の遊び代は全部こっちが払う」とか「協力してくれた人にはお礼も出す」とまで言っていた。最初は誰も信用していなかったが、子供たちの中には興味を示して寄っていく子も出てきた。そして本当にお金を受け取れるとわかると、さらに多くの子供たちがゲームをやめて押し寄せていった。そのせいで、入口付近はごった返していた。弥生は人の流れに紛れて出ようとしたが、近づくと、出口の前には男たちが何人も立っているのが見えた。彼女はふたりの子供を連れているため、あまりにも目立ちすぎていて、とてもそのまま出ていける状況ではなかった。人がどんどん散っていく中で、陽平は焦ったように彼女の服のすそを引っ張った。「ママ、どうするの?」弥生は周囲を再び見渡し、トイレの表示を見つけた。低い声で言った。「このままだと見つかっちゃう。トイレに隠れるよ」三人は女子トイレへと駆け込んだ。普段、陽平は弥生と一緒に女子トイレに入ることはないが、今回ばかりは例外だった。幸い、みんな
電話を切ったあと、弥生の気持ちはすっかり変わっていた。一時間後には、もう由奈がそばにいてくれることになっている。でも、心の中で待ち望んでいたあの人は、ずっと現れなかった。由奈が連絡できなかったのか、それとも彼は、知っていても面倒に思って来たくなかったのか。いろいろ考えて、弥生の胸は締めつけられるように苦しくなった。でもすぐに気を取り直し、目の前の少女にスマホを返し、礼を言った。「ありがとうね」少女は、スマホを貸したときには正直ちょっと不安だった。騙されるんじゃないかとでも思った。でもちゃんと返ってきたのを見て、ほっとしたように唇を引き結び、スマホを受け取った。それから隣にいるひなのと陽平を見て、小さな声で聞いた。「ここでちょっと遊ばない?」弥生は、彼女が一人でいることに気づき、一瞬うなずこうとしたが、すぐに思い直した。ここには長くいられない。「パパが迎えに来るから、もうすぐ行かなくちゃ。スマホ貸してくれたお礼に、これあげる。ゲームで使ってね」少女は首を振った。「大丈夫。当たり前のことをしただけだから」弥生は彼女の頭を優しく撫でた。それでも結局、友作から受け取ったお金を一枚差し出した。「受け取って。これはお礼の気持ちだから」少女は少し迷ったが、受け取った。「それとね、君、一人で出てきたの?こんな遅い時間は気をつけて。電話を貸すときも、不安なら無理に貸しちゃだめ。世の中には、私たちみたいな人ばかりじゃないからね」騙されたりしないか心配になって、弥生は少し真面目な口調で伝えた。すると少女は唇を引き結び、こう言った。「でも......もし貸さなかったら、あなたたちは家に帰れなかったんでしょ?」その言葉は、弥生の心を強く揺さぶった。「ほんとにありがとう。いい子ね。もう帰りなさい、気をつけてね」でも少女はまだ、名残惜しそうに彼女たちを見ていた。弥生はこれ以上ここにいられないと判断し、立ち上がってふたりの子の手を取った。「じゃあ、行くね」「どこに行くの?近くに住んでるの?また会えるかな?」弥生が答えようとしたとき、ひなのが口を開いた。「お姉ちゃん、おうちに着いたら電話してあげるね」それを聞いて、少女の目がぱっと輝いた。「本当?また連絡くれるの?」「うん!」ひなのは元
「わかった、わかった!」少女は最後に不機嫌そうに電話を切った。そのまま弥生たちの前を通り過ぎようとした瞬間、弥生は思い切って手を伸ばし、少女の前に立ちはだかった。「......こんにちは」突然声をかけられ、少女は一瞬びくっとして弥生を見つめた。相手も同じアジアの人だったせいか、少し警戒を緩め、不思議そうに尋ねてきた。「......何ですか?」弥生は穏やかに微笑んだ。「ごめんね。お姉さん、少しだけ携帯を貸してもらえないかな?電話を一本だけかけたいの」少女の鼻がわずかに膨らんだ。「自分のスマホ持ってないの? 嘘じゃない?」やっぱり、子ども相手とはいえ、そう簡単にはいかないか。弥生がどう説明しようかと考えたそのとき、横にいたひなのが、つっと少女の手を取った。「お姉ちゃん、ママのスマホ、泥棒に取られちゃったの。だからパパに電話したいだけなの......」ひなのの小さな声はとても可愛らしく、白くて大きな目からは今にも涙がこぼれそうだ。まるで人形のように可愛いその顔に、少女は思わず心を揺さぶられた。弥生は黙ってその様子を見守った。演技とはいえ、ひなのの可愛さはまさに最強だ。「......ほんとに、盗られちゃったの?」ひなのはうるんだ瞳でこくんと頷いた。「だからお姉ちゃん、少しだけ......ママに貸してあげて......」小さな泣き声に、少女はついに観念したようにため息をついた。「......じゃあ、ちょっとだけだよ。ここで、私の前でかけて。遠くに行ったらだめだから」そう言ってスマホを渡してくれた。弥生は心の中で大きく息を吐き、すぐにそれを受け取った。「ありがとう!」すぐに由奈の番号を押し、呼び出し音を待ちながら周囲に目を配った。ツー......ツー......一度鳴っただけで、すぐに由奈の声が飛び込んできた。「......弥生!? 弥生でしょ!?」「由奈!」数日ぶりの親友の声に、弥生の喉が詰まりそうになった。由奈も胸が詰まって泣きそうになったが、隣の浩史が落ち着くように目配せしてくる。由奈はすぐに浩史の指示でスピーカーをオンにした。浩史の冷静な声が電話越しに響いた。「今どこだ。座標は分かるか?」弥生は少し息を整え、すぐに自分の現在地を
浩史の「あだ名禁止」発言を聞いた瞬間、由奈の顔は一気に真っ赤になった。普段はこっそり心の中で呼んでいたのに、前にうっかり本人の前で口にしてしまい、その場でバレてしまったのだ。思い出すだけで、髪の毛の根元までゾワッとするほど恥ずかしい。この数日間、浩史が何も言わなかったのは、きっと緊急事態だから黙っていてくれただけだろう。改めて言及されると、由奈は居心地悪そうに頭をかきむしりながら答えた。「......わかった。気をつける......」浩史は冷静に補足した。「他のあだ名も、全部禁止だぞ」「わかった!」そう言い終えると同時に、車は静かに発進した。由奈は少し息を吐き、胸の奥の緊張をひとまず落ち着けた。その頃、弥生は子供二人の手をしっかり握りながら、旅館を出た後もひたすら前へと歩き続けていた。追手に見つからないようにするには、人混みの中に紛れ込むしかない。まだ夜にはなっていなかったのがせめてもの救いだ。街は行き交う人々で溢れ、追っ手がいてもすぐには特定できないはずだった。弥生の表情は緊張していた。もう安宿に泊まるのは不可能だ。高級ホテルだけでなく、こんな雑多な安宿まで弘次の捜索網に引っかかるのは、考えてみれば当然だ。自分が持ち出した現金は少なく、スマホもなければ頼れるものもない。全てが友作の残してくれた僅かな現金頼みだ。そしてさっきの電話......由奈はちゃんと気づいてくれただろうか?見知らぬ固定電話からだったから、もし無視されていたら?フロントの人が途中で受話器を戻していたら......考えれば考えるほど、不安が心を締め付けた。「ママ、これからどこに行くの?」陽平の小さな問いに、弥生は返事に詰まった。行くあてなど、今の自分にはなかった。旅館にも泊まれず、子供を抱えて野宿などできるはずがない。頭を抱えそうになったそのとき、ふと目に入ったのは大きなスーパーだった。24時間営業と看板に書かれている。弥生は決断し、子供たちの手を引いて店内へ入った。広い店内は明るく、エアコンが効いている。その奥に「ゲームコーナー」の看板が見えた。弥生は子供たちに微笑んで言った。「......上にゲームコーナーがあるわ。一緒に遊びに行こうか」いまは安全な場所に
電話が鳴り出してわずか一秒後、すぐに冷たい男の声が耳に飛び込んできた。「もしもし」由奈は一瞬、状況が飲み込めずに固まってしまった。「由奈?」沈黙する彼女に向こうが不思議そうに呼びかけた。それでようやく我に返った由奈は、さっきのことを一気に説明し、旅館の住所も伝えた。「絶対に弥生だと思う! もし違っても、こんなチャンス逃すわけにはいかない。どう思う?」「うん......すぐ向かう」電話口から、瑛介が運転手に指示を出す声が聞こえた。すべてを指示し終えてから、改めて由奈に言った。「その番号を僕の携帯にも送ってくれ」「はい!」通話を切った由奈は、すぐにその固定電話番号をメッセージで瑛介に送信した。ちょうどその時、浩史が近づいてきた。「話はついたか?」由奈は唇をぎゅっと噛んで、力強く頷いた。浩史は彼女を一瞥すると、近くにいたスタッフに尋ねた。「車、出せるか?」スタッフは一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。「ございます。社長のお客様ですから、お使いください」二人のやり取りを横で聞いていた由奈は、浩史を見上げて小声で訊いた。「......車で 行くの?」浩史はふと視線を落とし、彼女を見た。「どうした、行きたくないのか?」「......行きたい!」由奈はようやく理解した。浩史は自分を連れて弥生を探しに行くつもりだと。これまで我慢していた胸の奥の焦燥が一気にほどけ、胸が熱くなった。だが一方で、余計な足手まといにはなりたくなかった。だからこそ自分から言い出せなかったのに、浩史が自然に手を引いてくれたことが嬉しかった。鍵を受け取った浩史に連れられて車へ向かう途中、由奈は思わず彼の背中の裾を小さく引っ張った。「......社長、ありがとう」浩史は足を止め、視線を落とすと、白く小さな手を見て、わずかに口元を緩めた。「僕に感謝したのか? 口だけじゃ足りないな」「......え?」由奈は思わず手を引っ込めた。「......じゃあ、何かお返し?」「当然だろう」浩史はちらりと横目で彼女を見た。「口先だけの礼なんて意味がない」由奈は数秒考え込んだ末に、提案した。「......じゃあ、戻ったら、ご飯ご馳走します!」「それだけ?」何を要求され